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中国ドキュメンタリーの今(2)「姉貴」 フー・シンユィ監督に聞く

「ドキュメンタリー・ドリーム・ショー 山形in東京2008」インタビュー・シリーズ
西岡弘子2008/11/15
東京で11月14日まで開催された「ドキュメンタリー・ドリーム・ショー山形in東京2008」。特別企画上映「中国★紀録電影(ドキュメンタリー)の20年」では、中国国内の独立系映像作家による互助集団「黄牛田(ホワン・ニューティエン)電影」の映画が紹介された。07年の山形国際ドキュメンタリー映画祭・アジア千波万波部門で上映された「姉貴」のフー・シンユィ監督もメンバーの一人だ。
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 「姉貴」は、フー監督の姉をめぐる映画だ。暴力的な夫と別れて米国に移住し、現地の男性と再婚した姉は、前夫との間にできた娘を呼び寄せ、3人で暮らし始める。そこへ監督はカメラを持って訪ねる。米国人の夫、新しい家族と、文化の違う土地での生活。戸惑いを隠さず反抗する娘と、“大国”へ移り住んだ姉の葛藤を、カメラは執拗なまでに追い続ける。時にカメラは部屋の隅に固定され、監督自身が姉家族の問題へ介入していく。

<center>「姉貴」のフー・シンユィ監督=山形市内で2007年10月5日、金子裕司撮影</center>
「姉貴」のフー・シンユィ監督=山形市内で2007年10月5日、金子裕司撮影
 監督との主なやり取りは次の通り。

 ──ドキュメンタリー映画製作を始めた当初から、家族に焦点を当ててきたと聞く。きっかけは。

 現代版の活動写真を撮りたかった。人はみないずれ死んでいく存在。アルバムとして記録を作ることが、最大の動機だろうか。私はいつも「人が生きるとはどういうことか」と考えている。何のために生き、どこから来てどこへ行くのか。私は観客の一人一人が「あ、自分の家と同じだな」と感じるようなものを撮りたい。中国など特定社会に限定されたことがらではなく、普遍的な人間の感情が映っている作品を撮りたい。

 ──今後も家族がテーマの映画を作り続けますか。

 ほかのテーマを撮るつもりもあるが、やはり最大のテーマは家族。自分の家族だけでなく、たとえば結婚して子供ができたら彼らも。死ぬまで自分につながる家族を撮り続け、映像という形で残す。自分にとって一つのパフォーマンス・アートであると思っています。また、私は「姉貴」が映画の枠にくくられることに違和感を覚える。ビデオであって映画ではない。もちろんまだ改善の余地はあるが、私のビデオ・アートであることに誇りを持っている。なぜなら映画には、非常に多くの嘘が含まれていると思うからだ。

<center>「姉貴」</center>
「姉貴」
 ──普段は学校でオペラを教えていると聞いた。音楽について意図したことは。

 エンドロールに音楽をつけたが、それ以外は手を加えていない現場の音。生の音にこだわっている。音響効果からいえばドルビー(音響再生)にはかなわないが、生の感覚を大事にしたい。自作が「映画」としてくくられることに違和感があると言ったが、映画がリアルな質感を無視していると感じるからだ。

 ──故郷を思う姉の娘がパソコンで中国のアニメを見ている時、後ろの窓に米国のテレビ番組が映っている場面、姉の白髪の一本をクローズアップして撮る場面などが印象的だった。演出の意図を聞きたい。

 中国のアニメを見ているそばで、米国の番組の音が流れている。そこに米中の文化対比があると感じるとすれば、劇映画の文法に沿って作品を見ているのだと思う。その文法で作られた中国の劇映画には、海外で評価された作品が多くある。しかし、私は非常に恥ずかしいこと、虚偽的と感じる。あくまでも私の目の前で、現場で実際に起きたものがそういう状態だっただけ。「海外で評価されたい」気持ちはもちろんあるが、そのために中国と西洋を対比させるような演出方法を盛り込もうとは考えない。白髪のクローズアップでは、姉が43歳、中年の域に達した女性だと表現したかった。クローズアップの多用は、表情をきちんと映したかったから。表情を通して感情を映し出したい。ドキュメンタリーの客観性にはこだわっておらず、ドキュメンタリーに客観性があるとことも信じていない。

 客観と主観について少し補足したい。私は作品を個人の主観の複合体の形で作っていきたい。個々の持つ異なる主観があらわになった状態には、作者である自分の観点、主観があり、それがベースになっている。作者とて、客観的にすべて判断できるわけではない。あくまで一つの主観。自分も介在させながら、いったい何が客観的なのかと観客自身に投げかける。そういう作品を作っているし、作っていきたい。

 ──私はかつて現状を批判的に捉えるものがドキュメンタリーだと思っていた。しかし「姉貴」には否定的感情が一切入っていない。最初は不思議に思ったが、監督が「自分の家族を見るような気持ちで見て」と言った時、納得できた。

 ドキュメンタリー(映画)は、何か日常とは違うもの、より重要なものを撮らなければいけない……という作品が主流だ。たとえば同性愛、政治的なもの、何かを暴露するもの。日常やありふれたものには目を向けていなかった。日常は自分でビデオで映せばいい。わざわざ作品にする必要はないというのが大方の意見だろう。

 ──「姉貴」はとても軽やかで、特に何か訴えようとしている訳でもない。時にユーモアを含んだ軽やかさは、どこから来るのだろうかと。

 作品には私が出ているが、別にユーモア(の効果)を狙っている訳ではない。前作から「自分が出るとはどういうことか」と考えるようになった。私はカメラの前後も含め、すべてが現場だと思う。私は画面にカメラの気配をとどめなければいけないと思う。だから自分が映していることを見せ、自分自身も出ている。それが現場のありのままの形。また私は感覚を大事にしている。カメラの前後を含めた全感覚を失ったら、機械にすぎない。すべてひっくるめた存在として私は作品を作り、カメラの気配をありありととどめている。重要なのは精神と内容。そんな形式を通して、どんな精神や内容が映されているかに、最大の意義がある。

 形式と精神、形式と内容を対比させた。人間関係も同じことが言えると思う。たとえば目の前に女性がいて、きれいだなと思い、「君はきれいだね」と言う。それは真実の表現だ。しかし、あまりきれいだと思わないのに言うのは技術に過ぎない。もちろん技術は使えるが、私はやはり真実を伝えたい。真実の感情を表したい。

 ──07年の山形国際ドキュメンタリー映画祭の資料に、監督の言葉として「映画の神聖さと虚構性の放棄を試みた」と書かれている。

 映画の神聖さと虚構性をどうしたら放棄できるか。ドキュメンタリーなら可能だと思う。真実や今そこにあるものを、ドキュメンタリーなら映せる。カメラの存在も含めた、今そこにあるものを。「カメラは目と同じ」いう言い方こそ虚構だと思う。カメラはカメラ。カメラという介在するものがあることも含め、自然なこと。それを映し出せるのが、ドキュメンタリーの一つの強みなのでは。劇映画でやるとしたら、そこに達するには相当な能力が必要だと思うが、ドキュメンタリーなら可能かもしれない。


 フー・シンユィ 1969年生まれ。独立系映像作家。89年、山西省太原市の山西大学音楽学部に入学。93年から太原市販学院音楽学科で教鞭をとる。2001年に発表した長編ドキュメンタリー映画「男人」は、オランダ、フランス、中国などの映画祭で上映される。「姉貴」は長編2作目。

編集部注:2007年の山形国際ドキュメンタリー映画祭「デイリー・ニュース」掲載記事を補足・再構成しました。
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